[思考] 以前の僕にとって、最愛のものはハッキリしていた
・ある人とある人の対話

 「汚れを嫌い、善なるものだけを吸収しようとする人よ。人の心は汚れたら、誰かに洗ってもらわない限り汚れたままだとでも?私は、自分で自分を綺麗にする力を信じる。」

 - 「汚れを嫌っていても人は汚れる。ならば、汚れから逃れようとする意思とは、自浄能力と言い換える事は出来ないかね。誰かに洗ってもらうのではなく、自分から綺麗になろうとする意思だ。」


・心を澄まさねば聞こえぬ、奥底の意思。その声に従わなければ、微かな違和感が付きまとう。

・最愛の人と最愛の意思は、比べるものじゃないよ。でも、どうしても選ばねばならないとしたら、僕は意思を選ぶだろう。




以前の僕にとって、最愛のものはハッキリしていた。それは「心の中の人」だ。他人には見えないけれど、何より大切で、とても大きな存在だった。その存在に近づきたいが為に、心を清らかにしようと思った。例え僕が考えている事を全て他人に聞かれても、大丈夫な位になろうと思った。何故なら、その存在は心の中に居て、僕の考えている事は全て分かっていたからだ。自分が生きる意味は、その人の存在そのものだった。その人の事を考えれば無限の情熱が湧いてきていた。

そして、あまりにその存在を疑う余地が無かった為、色々と考えた。「触れられなければ存在しないのか?」だの、「他人は存在するのか?」だの「”世界”とはどこまでを指すのか?」だの「他の3次元世界は存在し得ないのか?」だの。(その答えは「触れられなくても存在する」、「他人の存在を確証するものは無い」、「自分にとっての世界とは、認識しているものの範囲内」、「線と線が平面状で交わるのと同じように、3次元と3次元は4次元上に於いて交わる」だった。その他にも、本当に色々な事を考えた。)

長いこと自分のマークとして使っているこのマークは、僕の心の中に灯る炎や情熱、つまり最愛の存在を表している。でも昨年、リンク先の記事を書く直前に、その最愛の存在が消えてしまっている事に気が付いた。「居るのが当然」と思って数年間放置していた間に、いつのまにか居なくなったのだ。以前の僕は、見えないものを心の底から信じている、客観的に見ると「変人」だった。でも僕は、そういう変人に戻りたい。

今の僕は、神様を信じていない多くの人と同じように、日ごろの生活に満足したり、何かに一生懸命になったり出来る。とても嬉しい事だってあるし、浮かれることもある。優しい気持ちにもなれる。でも、心の奥底から湧き上がるような情熱や、その情熱との一体感は無いのだ。心のどこかに穴が空いてるのだ。

この喪失から得た教訓がある。それは「当たり前だと思っているものでも、消える事がある」という事と、「消えないようにする為には、絶えずその存在を確認する」という事、そして「今当たり前のようにある友情や愛情も、同じように消えないようにしなければならない」と言う事だ。

小さな頃、誰も居ない山の中で親とはぐれた事がある。辺りを見回して親が居ないことに気が付いた瞬間、とても不安になって夢中で親を探した。今の自分は、その時と似ている。「あそこの起伏を越えれば、あの人の姿がヒョイと現れるかもしれない。でも分からない。どこだろう。どっちに進めば会えるんだろう」と、そんな感じだ。

なにも再会するばかりが道ではない。色んな道がある。心の中の人とスッパリ別れて、別の道を歩くことも考えた。今後もう会う事は出来なくとも「影響を受けた」という事実は残るし、その残り香を胸に生きていけば良い、とも考えた。特別な事をしなくても今のままで生きていける。そして、きっと心の中の存在を取り戻すよりも、他人が理解しやすい人になるだろう。

でも、他人がどう思おうとも、僕はあの存在を心の中に取り戻したい。取り戻すのは今の所、とても難しい。茨の道だ。だけれども、それが僕の答えだ。
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by syatin | 2007-03-22 22:31 | 考え事整理
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